先日、大西民子の第三歌集『無数の耳』の勉強会に参加する機会があった。準備にあたって、自分は図書館から『無数の耳』の単行本を借りたのだが、そこには「石も呻く」という十一首連作の三首目から八首目までの範囲を指して「全歌集 異歌」と書き込みがあった。当日、勉強会でこのことを話題にしたところ、沖積舎版の全歌集を持っていた方にその場で比較してもらうことができたのだが、この三首目から八首目までの六首が見事なまでに全く違う歌になっており、全員が驚いた。これはいったいどういうことなのだろうか。
問題の全体像
勉強会中に話し合っていくうちに分かったこと、勉強会後に改めて調査したことを合わせると、問題の全体像は次のようになると思われる。
まず、第三歌集『無数の耳』の単行本において、十一首連作「石も呻く」の三首目から八首目までの六首は以下のようになっている。ここで、歌の番号は分かりやすさのために便宜上振ったものであって原典にはなく、また【】内はルビである(以下同じ)。
- 執拗に片目盲ひし農婦など描きゐたりしそれより訪はず
- 石などに似て来しわれと思はねど石も呻くと聞けば歎かゆ
- 移り来し日より再び消し炭を壺に貯【た】めつつ炊ぐ妹
- 紅絹【もみ】縫へば痛む指先折れ易き針のことなどかなしみ尽きず
- 閉ぢし目に木々の高さを測りゐつ風立ち来【く】れば共にゆれつつ
- 地に届くばかりの氷柱【つらら】冴ゆるとふ帰り住めとは言ひ来【こ】ずなりぬ
次に、第四歌集『花溢れゐき』の単行本において、十七首連作「雲多き日々」の九首目から十四首目までの六首は以下のようになっている。
- 泥のごとき雲ばかり見てゐし夢の醒めつつ風の音がひろがる
- 青柿を拾へば土の冷え持てり何に朝より苦しきわれか
- 駆けこみて来し人の息しづまらぬままトンネルに入りゆく電車
- ややありて筆談に移るさま見つつ人を待つ間【ま】の次第に長し
- 稀薄なる思ひにゐしが黒き傘不意にすぼめて人の入り来【く】る
- 雲多き日々となりつつ黄の花粉こぼして終るマーガレットも
そして、沖積舎から出版された『大西民子全歌集』において、上記の両六首はそっくり入れ替わった状態で収録されている。即ち、同全歌集「石も呻く」の三首目から八首目の位置には単行本「雲多き日々」の九首目から十四首目までが載っており、同全歌集「雲多き日々」の九首目から十四首目までの位置には単行本「石も呻く」の三首目から八首目が載っている。
なお、表記の違いが一箇所あり、単行本「雲多き日々」の十一首目初句「駆けこみて」は、同全歌集では(位置が入れ替わった上で)「駈けこみて」となっている。同全歌集では「駆」も使われているので、活字の制約というわけではないだろう。
逆に、表記が変わっていないことに注意すべき点が一箇所ある。拗音等の表記について、まず、単行本の『無数の耳』では小書きになっていないが、『花溢れゐき』では小書きになっているという違いがある。これについて、同全歌集では、少なくとも『無数の耳』と『花溢れゐき』については単行本に従った表記としているようである。そして、単行本「雲多き日々」の十四首目結句にある「マーガレット」の促音はもちろん小書きであるが、同全歌集において位置が入れ替わって「石も呻く」内に来ても、なお小書きのままとなっているのである。その三首後(同じページ内、「石も呻く」の最後の歌)には「シヨール」という表記もあるので、結果として奇妙な印象を与えてしまっている。
沖積舎からは後に『大西民子全歌集 普及版』も出版されているが、少なくとも「石も呻く」と「雲多き日々」については先の全歌集と異同はなく、歌の入れ替わり、「駆」から「駈」への変更、「マーガレット」の促音が小書きである点もそのままである。実際のところ、両全歌集は紙面の同一性がかなり高く、素人の推測ではあるが、普及版には文字の微妙な滲みがあることから、先の全歌集の版を紙型等の形で保存しておいて再利用したのではないかと思われる。これらのことから、ここでは両全歌集は区別せずに扱う。
さらに後に、現代短歌社からも『大西民子全歌集』が出版されているが、ここでは「石も呻く」と「雲多き日々」の双方とも単行本の通りに収録されている。即ち、歌の入れ替わりは発生しておらず、「雲多き日々」の十一首目初句も「駆けこみて」である。ただし、拗音等は一律小書きにするという方針のようで、「マーガレット」の促音はいずれにせよ小書きであるが、先述の「シヨール」も「ショール」となっている。
何故入れ替わったのか
この入れ替わりは、双方の連作のタイトルとなっている歌(「石も呻く」の四首目、「雲多き日々」の十四首目)まで含んでしまっているので、流石に意図的なものではないだろう。よって、出版の過程で何らかの手違いが起こったと思われるが、それはいったいどのようなものだったのだろうか。
実は、『無数の耳』と『花溢れゐき』の単行本は、ともに形成叢刊というシリーズ(出版は短歌研究社)に含まれることもあってか、組版が非常に似ており、四六判、一ページ三首、一首は二十文字で改行という形式に揃えられている。そして、入れ替わった六首はそれぞれの単行本においてちょうど見開き一ページ分であり、なんと、ページ数も一四六ページから一四七ページで一致しているのである。
もちろん、組を細かく見ていくと、活字は異なるし、歌やノンブルの位置も違っており、何より『無数の耳』には柱がないが、『花溢れゐき』には奇数ページ(左ページ)のノンブル横に柱として部立て(というのだろうか、連作より一段階大きいまとまり)のタイトルが掲げられているという違いが見つかる。
沖積舎版の全歌集の組がどうなっているかというと、(おそらく)菊版、一ページ九首、一首一行、ノンブルはページ下部、柱は両ページ上部に歌集名となっている。歌の入れ替わりの位置は、一九九ページの最後一首から(見開きで考えたとしても次のページとなる)二〇〇ページの五首目までと、二八三ページの一首目から六首目までである。
これらのことから推測すると、手違いが起こった流れはおよそ次のようなものになるのではないだろうか。
- 全歌集の底本として、各単行本を採用する
- 編集作業は、底本の見開きページを全てコピーしたものを利用して行う
- 印刷所への入稿前後までに、問題の見開きページのコピーが入れ替わるが、組が似ており、ノンブルの一致という偶然もあり、見逃される
- その状態で組版を行う
- 校正刷りでも入れ替わりが見逃される
- そのまま出版される
もう少し想像を逞しくすれば、コピーの入れ替わりは、「雲多き日々」の十一首目初句において「駆」と「駈」の違いがあることと無関係ではないだろう。例えば、コピーの束から『花溢れゐき』の該当見開きページを取り出して「駆」から「駈」への修正を書き込み、束に戻す際に『無数の耳』の方へ入れてしまい、後に同一ノンブルの連続に気付いたときに、今度は逆に『無数の耳』の見開きページを『花溢れゐき』の方へ移してしまった——などとは考えられないだろうか。
このような推測や想像は、それなりに合理的なものであるとは思っているが、それでもなお、真相とは全くかけ離れている可能性があるという点には十分に注意されたい。
まとめ
- 沖積舎から出版された『大西民子全歌集』および『大西民子全歌集 普及版』において、『無数の耳』中「石も呻く」の三首目から八首目までと、『花溢れゐき』中「雲多き日々」の九首目から十四首目までとの両六首は、単行本を基準とすれば、そこからそっくり入れ替わった状態で収録されている
- この入れ替わりは、意図的なものではなく出版過程における手違いであると、それなりに合理的に推測できる
謝辞
勉強会において情報をくださり、議論してくださった皆様、そして「全歌集 異歌」の書き込みを残してくださった見知らぬ方、ありがとうございます。
参考文献
- 大西民子『無数の耳』(形成叢刊、短歌研究社、昭和四十一年)
- 大西民子『花溢れゐき』(形成叢刊、短歌研究社、昭和四十六年)
- 大西民子『大西民子全歌集』(沖積舎、昭和五十六年)
- 大西民子『大西民子全歌集 普及版』(沖積舎、平成六年)
- 大西民子著、波濤短歌会編『大西民子全歌集』(波濤双書、現代短歌社、平成二十五年)