Sophere / にきもの / 2009年7月

にきもの

カリオストロの城、天空の城

2009年7月27日

ここのところ天空の城ラピュタを分析しながらそれを文章にまとめている。およそ芸術作品の理解には分析という作業が不可欠だが、分析によってより面白くなる作品とつまらなくなる作品があって、ラピュタは後者である。正確に言えば、前半は面白くなるが後半はつまらなくなる。後半に入って分析のスピードが落ちたのはそのせいである。

気分転換も兼ねて同じく宮崎駿が監督したルパン三世カリオストロの城を久しぶりに見たのだが、ルパンではないという批判はさておき、これはやはり素晴らしい。恥を忍んで告白すれば、最初に見たときは銭形の有名な台詞の意味を全く分かっていなかったのだが、とにかくあの台詞が全てを物語っている。

ここでふと気付く訳だが、二つの映画はかなり似通った舞台装置を持っている。ルパンとパズーはそれぞれ泥棒と冒険家(見習い)という流れ者であり、クラリスとシータは親を亡くしているものの家柄は由緒正しく、伯爵とムスカは彼女らと対をなすこれまた由緒正しい家柄である。あるいは指輪と飛行石は物語の進行において重要な役割を果たし、最後には時計塔とラピュタを崩壊させるための鍵となる。

このような類似性があって、なおかつその出来に違いが現れてくるのは何故だろうか。思うにそれは恋愛の描かれ方に起因する。カリオストロの城はルパンとクラリスの恋愛に捧げられており、その内容も二人はほとんど会えずに最後は別れてしまうというもので、大変ストイックである。ところがラピュタは、表面上は冒険活劇と自然賛美というテーマを掲げておいて、その陰でパズーとシータの恋愛に大きな部分を割くという構造になっている。恋愛ものではないふりをしておきながら、特に物語後半において二人は自分たちだけの世界を満喫するのである。

別の観点から説明すれば、不二子が出てくるかドーラが出てくるかの違いである。二人は立ち位置としては似ているが、果たす役割は全く異なる。即ち不二子は女の味方であり、ドーラは男の味方である。ドーラは親切にもパズーをシータのところまで連れて行ってやるが、不二子はルパンに協力するとしても取引の結果としてクラリスの居場所を教えるだけである。あるいはドーラはシータに台所仕事を割り当てるのに対し、不二子はクラリスに指輪の隠し場所を教えるのである。不二子のこの行動は全く素晴らしい。