Sophere / にきもの / 2009年6月

にきもの

セクシーかキュートか

2009年6月24日

新潮社に月刊アクトレスというシリーズがあって、女優やアイドルの写真集を毎月一冊ムックとして発売している。写真を始めた頃からシリアスな(書店で写真の棚に並んでいる)写真集はよくチェックしていて、アイドル写真集は興味の対象外だったのだが、そのうち同じ写真家がシリアスな写真もアイドルの写真も撮っていることが多いことに気づいて、特に月刊アクトレスシリーズは有名な写真家もいろいろ撮っているようで気になり始め、ちょっと前に十冊ほど買い集めてみた。

名前と顔が一致しないとか、名前だけしか知らないとか、名前すら知らないとか、そういう人ばかりが被写体なので、必然的に写真としていいかどうかという観点で見ることになるし、最初からそのつもりで買ったのだが、結果はどうかというと、大抵は微妙だったのだが、『月刊鈴木茜』(名前も顔も知らなかった)と『月刊加護亜依』(例外的にかろうじて名前と顔が一致した)は良かった。

月刊鈴木茜は宮下マキの撮影で、これは素晴らしい。つまらないカットもいくつかあるものの、全体的にクオリティが高く、特に表紙にもなっているカットは大変キュート。(なお表紙ではおそらく紙かインクの関係で青みが強くなっている。)対する月刊加護亜依は笠井爾示の撮影で、欲望の赴くままに撮っているような臨場感がよく出ていて、特に屋外で撮った白黒がいい。

そして気づくのは、二つの写真集のテイストが極めて異なっていることである。被写体も違えば写真家も違うのだからそれはある意味当然なのだが、しかしその変数としては写真家の性別も入っているのではないかと思う。この例に限らず、写真家の性別によるテイストの違いというのは確かにあるように思っていて、あるいは違うジャンルで言うと、殊更性別に関わる内容でなくても、文章(特にエッセイ)を読んだだけで感覚的に書き手の性別が分かってしまうことがかなりある。

そういうわけで、性別によるテイストの違いをうまく説明することはできないものだろうかと昔から漠然と思っていたのだが、女性を撮った写真に限って言えば、たまたま読んだ上野千鶴子の『セクシィ・ギャルの大研究』に書いてあることで半分は説明がつきそうである。

例えば一ページ目の写真を比較すると、すっと立って窓の外を見ている(のだろう)鈴木茜を右側から撮った写真と、塀の下部にある膝より少し低いぐらいの段差を利用して半ば四つん這いになってこちらを見ている加護亜依を撮った写真なのだが、上野によれば四つん這いの姿勢は性交を連想させるのでセクシーな記号ということになる。が、鈴木茜の姿勢はそのような記号とは無縁のように思われる。

他にも寝転がっている姿勢や唇を強調するしぐさはセクシーさを表す記号であって、月刊加護亜依ではそのような記号がストレートに使われている。この語法は被写体が女性であり写真家が男性であることによって成功していると言っていいと思うが、対する月刊鈴木茜では宮下マキが女性写真家であるためにセクシーさの記号をネイティブのようには捉えられていないようで、脚を開いたポーズを撮った四十一ページや七十一ページの写真がぱっとしないのはそのためであろう。しかしその代わりに彼女はキュートさの記号を扱っているとでも言えると思うのだが、先ほど半分と書いたようにこちらはまだ具体的には説明できていない。